私は結構誤解されやすいようです。
私が普通にしているときでも、怖がられているときがあるそうです。
方言がもともと汚いということもありますし、表情も普段の顔が怖いそうです。
疲れているときの表情が特に怖いそうです。
自分でもある程度はわかっていらのですが、自分が思っている以上に怖がられているようなので少し気をつけようと思います。
そういうことをちゃんと指摘してくれたので分かったのですが、指摘してくれないと分からないですよね。
だからといってみんなに知られてしまう方法で私を非難するようなことはされたくなかったですね。
確かに怒っているような文章でしたが、疲れていて落ち込んでいただけなのでそこまでされる筋合いありません。
私が怒っていたかのように見えたんだと思うのですが、非難している方法で非難されてもまったく意味がないような気がします。
まあ私をつるし上げてるんでしょうね。そこまでして非難したいんですから私を嫌っているんでしょうね。
あの行動がどういう意味か分からずにやっているっていうほど馬鹿でもないでしょうからね。
所詮言葉も文章も形骸的なものです。そんなことしても私の腹の中を黒くするだけです。
はあ、こんなこと思いたくないですね。
精一杯の努力はすばらしいことだと思います。
私は、努力はあまりしません。
反感を受けるかもしれませんが、努力することで体力や精神力を失うのが嫌だからです。
だから、自分で努力したと思うことはほとんどありません。
しかし、私は努力していないと思っていても、他の人から見たら努力していると思われることはあるかもしれません。そのような情報は私の耳に入ることはあまりないので、私としては自覚が無いのですが。
今までできなかったことができるようになったねといわれると、私はそれができるように努力をしたのかもしれません。
少なくとも、ホルンの時代、必死に音を変えようとして、変わったと言われて初めて努力してたんだなあと気づきました。
私にとって努力とは、結果が出て初めてやっていやんだと気づくものです。
精一杯の努力は完璧主義につながることもあり、それからうつ状態を引き起こすこともあります。
私は、完璧主義ではありませんが、完璧になるようにがんばってうつになることが多かったように思います。
私が欝だったのは大学時代だけではありません。自殺願望は中学時代からありました。
何年も涙を呑んで、ようやくうつ状態を回避する方法をある程度身につけました。
努力を回避し、自分を責めず、場合によっては他人に責任転嫁するという方法です。
これは、精一杯努力する人から見ればとんでもない方法かもしれませんが、私にとってはうつ状態を回避する精一杯の努力なのです。
過去の自分は、すべてのことにおいて限界に限りなく近づく事はできると思ってました。しかし、限界まで近づける必要はないのだと、自分のやりたいことだけをすればいいのだと、そう気づきました。
限界まで近づけようとしていた過去の自分がいたからこそ、自分のやりたいことだけをする今の自分がいる。
過去の自分はなくてはならないものです。
だから過去の自分が書いたブログの文章は消しません。
それがたとえ今の自分に不都合なことでも。
サイト更新したいです。
忙しいのでまた今度にします。
来年の定期演奏会の楽譜が配られました。
・・・なんかファゴットの出す音じゃないような気がします。
普通のファゴットで最強のアシ(OBさん)に助けてもらうか、コントラとファゴットの持ち替えで比較的楽なパートをするか。
悩みますねえ。
まあこれは私がコントラファゴットを吹くことができるということが前提なのですが・・・。
やっぱり見てて心が苦しくなる言葉があります。
あえてここには書きませんが、ああいう言葉を言って何が楽しいのでしょうか。
確かに言葉は何も悪くないですし、所詮言葉なんてほとんど意味の無いもののひとつなので気にすることはないと思うのですが、見てて心苦しくなるときがあります。
うつ状態になるときがあります。一ヶ月前までひどかったのですが、病院に行く勇気なんてありませんでした。
自分で対処するしかありませんでした。
固定概念は変わってませんが、思考パターンを変えることで乗り切ることができました。
悩みなんて簡単に人に話したくありません。私の心をさらすことは、自分を危険にさらすようなものです。
悩み、それはうまく人に苦しみを伝えることができないこと。
言葉にならない苦しみは、誰にも語ることができないまま、静かに私を蝕んでいきます。
言葉はほとんど意味の無いもののひとつです。しかし、人に伝える方法として言葉は重要な役目を果たします。
努力、精一杯の努力、完璧でなくていい、その結晶が、努力の過程こそが、人間を作り上げる。